活動報告

【活動報告】平成30年8月6日 昆布も病気も売ります!べてる見学してきました!

2018年8月8日

8月4日に中国から帰国。
4日、5日と萬蔵祭(地元商店街のお祭り)。
そして、北海道命名150年記念式典もありました。
それで、今年は諦めてました。
べてるまつりin浦河。

しかし、気づいてしまいました。
べてるまつりが終わった6日に見学プログラムが企画されていました。
全く理性的な判断とは言えないのですが、
毎年必ず自分自身の振り返りにもなる「べてる」の風に触れたくて、
レンタカーを走らせ浦河に行きました。

私の社会人のスタートは、ここ浦河です。

22歳の春、各駅停車を乗り継いで、
浦河駅に降りた日の心細い気持ちを今も覚えています。

私が採用になった年は、
男女雇用機会均等法施行元年。
男性には、独身寮がありましたが、
実家暮らしではない女性の採用は
基本的には想定されていない時代でした。

1人暮らし初めての私が、最初に住んだ部屋は、
風呂なし、共同トイレの「ひまわりハイツ」
もう今は取り壊されてありません。

家賃は12000円。
「借り上げ公宅」という
道の支援制度の限度額の上限でした。
初任給は104,000円くらいでした。
よく給料日前には、銭湯を選ぶか、食材を選ぶか、
悩んだことも懐かしい思い出です。

近所の銭湯の営業が、たしか21:00までだったので、
課の行事などで遅くなると、よく職場の先輩のお宅で
「もらい風呂」もさせていただきました。
「“段ボール”箱入り娘」で、世間知らず、不器用だった私も
そういう職場の雰囲気だったので、何とかやっていけたのだと、
札幌採用ではなかったことを今では感謝しています。

私の社会人初の仕事は、生活保護のケースワーカーでした。
そのときに「べてるの家」とのご縁ができました。

ちょうど「べてるの家」の草創期で、
まだ、下請け仕事として当事者のみなさんが
昆布の袋詰めなどをしていた時代。
締切間際になると締め切りのストレスで、
どんどんみんな倒れたり、調子を崩していた記憶があります。

いわゆるべてるの家の「成功」は、
下請けではなく、自分たちで事業をスタートしたところから
はじまったのでないかと思います。

今回は、おまつりの本体には参加ができませんでしたが、
逆に見学プログラムに参加できたことで、
「安心してサボれる会社づくり」など
常に進化を続ける「ニューべてる」の日常を体験できました。

まずは、「当事者研究」のプログラムに参加。
私が浦河で生活保護のケースワーカーとして、
勤務していたころは、このプログラムはまだありませんでした。
「当事者研究」は、ここ浦河での実践の中から生まれ、
いまや国内にととどまらず、世界に向けて発信されています。

医療の側から与えらえれた病名ではなく、
当事者研究の場合、自分で自分の病名をつけます。

さらに、ユニークなのは、「生きづらさ」「苦労」を
なくそうとしたり、否定するのではなく、
人によっては幻聴や幻覚として現れる
その「苦労」や「マイナスの声」さんたちに名前をつけて、
それらと対話する方法を、
そこに集まった「仲間」と一緒に考えます。
べてるでは、「言葉の力」が重要視されます。

「当事者研究」が作り出す「場」にいると
障害の有無にかかわらず、今、現代社会で
私たちの人生を振り回しているかもしれない「苦労」を、
客観的に眺めることができます。
その上で、自分の助け方、助けられ方を、
人との触れ合いの中でロールプレイを交えて、
練習していきます。

自分の助け方を知っている一番の専門家は、
そして自分自身の人生のプロデューサーは
親や家族や医師や看護師でもなく
その人自身。
そのことを取り戻すプロセスでもあるようです。
冒頭と最後は、唄やお芝居(ロールプレイ)などが
取り入れられています。
脳科学的にもおそらく有効だと推察します。

その後は、べてるメンバーが、自然工法でリノベした
カフェぶらぶらへ。
私が日高支庁勤務時代に手話を教えていただいたり
隣人としてお世話になった芦澤敦子さんが
カフェで働いています。

私にとって良かったことは、
当事者の皆さんと生活保護のケースワーカーと、
担当ケースというつきあいだけではなく
浦河手話の会で、浦河べてるのメンバーさんとも
また、向谷地ソーシャルワーカー含めて医療現場のスタッフの皆さんとも
同じ会員どおしであったこと。

接触が増えればふえるほど、正直に言えば、
最初に隠し持っていた恐怖感や
そこから来る差別意識などが
どんどん薄れていったと思います。
そういう場を保持していたのが、
当時手話通訳者として活動していた芦沢敦子さんでした。
手話だけではなくろうあ問題なども学びました。
今もとても感謝しています。

世界からも注目されているべてるですが、
残念ながら、今も昔も
地元の方の理解は、まだまだ伸び代があります。
ちょうど私がおじゃました時、
いつも、ここの500円ランチを楽しみにされている
地元のご婦人たちもフラッといらしていました。
少しホッとしたりします。

次におじゃましたのは、
浦河日赤で精神科病棟が廃止されたことをキッカケに、
川村敏明医師が開設された診療所にうかがいました。
ほんとにここも、多機能でした。

診療所のイメージを裏切るように併設されたカフェや、
障がいのあるとされる人たちのアート作品の展示スペース。
また、事情があって支援が必要なお子さんの子育ても
こちらで行われているとのこと。

この川村敏明先生にも思い出があります。
私は当時、生活保護のケースワーカーとして、
アルコール依存症の患者さんのお宅に足繁く訪問し、
お酒をさがしてその場で捨てさせたり
もう飲みませんという誓いの言葉を書いてもらったり、
必死にその人のためのつもりで、
仕事をしていましたが、効果はありません。

主治医である川村先生に相談したところ、
「ははは、広田さん。
それはイネイブラー(enabler)と言うんですよ。
そんなことをすればするほど、
安心して依存できるんですよー」と。

一瞬、理解できませんでしたが、
それ以来、肩の力がぬけました。

他人が他人の人生を生きることはできない。
他人のためにと思ってやっていることは、
多くの場合、自分のためである。
福祉の仕事や、労働組合の仕事、
そしてNPOや政治の仕事。
私自身は、公のために働くことが好きですが、
人の為と書いて「偽」と言う字になります。

時々、自分に問いかけます。
今やっていることは、やろうとしていることは

「ほんとうにその人(その地域)のためなのか?」

「今目の前にいる人の力を信じているのか?」

「自分のためにやっていないか?」

そう心に無意識に確認する習慣は、
川村先生や向谷地ソーシャルワーカーや
べてるという「場」のおかげさまです。

さて、今回の視察プログラムの圧巻は、
いわゆる就労支援B型事業所であるノアさん。
化学肥料、農薬を使わない野菜栽培販売や、
ゴミの分別など暮らしの中の困りごとに対応する
便利屋さん的機能も請け負っています。

とても美味しい野菜を自分でトッピングして、
手造り石焼き釜で焼くピザをいただきました。
格別な美味しさでした。

べてるには9つのグループホームがあって、
他にも町営住宅や民間住宅に住んでいる人たちがいます。
彼、彼女らは、ほぼ毎日、この無農薬の
美味しいお野菜が食べられるのかと思うと、
とても羨ましく思いました。

べてるは当事者研究を生み出す過程の中で、
自分の苦しみだけにフォーカスすることから、
商売しよう、障がい者とされる自分たちも町に貢献しようと、
動き出したことも今の「べてる」を生み出す
原動力になったと思います。

長文になりました。
これでも、べてるを語りつくせていないと思いますので、
関心のある方は、こちらのサイトをどうぞ!
https://bethel-net.jp

昆布製品だけではなく、書籍やDVDも売っています。
「昆布も売ります。病気も売ります」
これも、べてるの理念の1つ。
来年のべてるまつりには、是非、ご一緒しましょう。

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新しい価値観を、北海道から少しでも発信できたらと思っています。

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